NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」の放送が終わった。日本で初めての女性弁護士、女性判事として戦後の法曹界で活躍した三淵嘉子さんがモデルの物語だった。民主主義がもたらされた戦後であっても、根強く残る女性差別と戦ってきた彼女の生涯を、ドラマでは主人公の寅子の物語として描かれていた。寅子は、疑問に感じたことに対して「はて?」というのが口癖だ。たくさんの「はて?」を通じて、社会に女性差別という疑問を投げかけていた。 私もこれまでの人生の中で「はて?」と感じたことは何度もある。最初の「はて?」は、早稲田大学法学部に入学した時のこと。クラスに女性が3人しかいなかった。文学部や教育学部とは大きな違いだ。女性が法律を学ぶことへの社会の偏見が存在し、寅子の時代から年月がたっても消えていなかったのかもしれない。小学校から高校までは共学の公立だったので、男女はほぼ同数。学校生活にも差別を感じたことはなかった。そしてその後の大学生活でも女性の人数こそ少なかったが、大きな疑問を感じることなく過ごすことができた。 次の「はて?」は、大学を卒業して社会に歩み出そうとした時のこと。就職活動の時期になると、男子学生には多くの企業から会社案内なる冊子が山ほど送られてきた。それなのに、女子学生にはない。女子は男性社員の妻に相応しい人という基準で採用されていた。就職氷河期だったこともあり就職には苦戦したが、女性だからこそ活躍できそうな業種を中心に就職活動した。幸いなことに某化粧品会社に入社することができたが、その後の人生にも「はて?」は続いたのであった。 結婚後、立川市に移り住んでからしばらく、男女平等参画推進審議会委員として「はて?」と問い続けてきた。 学生時代の最初の「はて?」から現在までかなりの時が流れ、多くの変化があり、ジェンダー問題は徐々に解決に向かってきたと感じている。まだまだ問題は残るが、これからの時代の女性達が次々と解決してくれると信じている。 と、こんなことを書いていてふと思った。稲門会のホームページにこの内容でいいのだろうか?「はい、いいですよ」と誰かの声が聞こえてきたような気がした。稲門会は早稲田で青春を過ごしたという共通項それだけで、会員の間に一体感が生じる。年齢や性別が異なっていても、なんだか何でも聞いてもらえるような気になってくる。共感してもらえるかどうかは別として、そんな相手がいることはありがたい。人生を楽しみ充実させるには、やはり稲門会は大切だ。
1982年4月1日、私は早稲田大学教育学部教育学科教育学専修に入学しました。いわゆるトリプル教育といわれる専修で、ここから「教育とは何か?」を問い続ける日々が今でも続いているような気がします。
私は、早稲田大学が大好きです。自宅が、下駄で歩いて10分くらいの所で、まかない付きの下宿屋をしており、早稲田の学生ばかりでした。受験は、早稲田一本で、一浪して、昭和35年第一文学部ロシア文学科に入り、昭和39年に卒業しました。大濱信泉総長のもと、そうそうたる名物教授に学びました。
昭和38年(1963年)に第2理工学部建築学科を卒業し、大阪に本社のある中堅ゼネコンに就職しました。
22年間は現場(北海道、岩手、宮城、茨城、群馬、埼玉、東京、神奈川)で働き、その後8年間は海外事業部(主としてグアム)、そして7年間は東京本店勤務となり、2000年6月に定年退職しました。
原田さんに続いてのエッセイ、うれしいです。というのは、原田さんのご両親の出身が長野県飯田市、私は、その近くの岐阜県中津川市苗木出身。1998(平成10)年には、飯田―中津川間を高速バス「いいなかライナー」が走り始めました。このネーミング、気に入っていたものの、廃線となってしまいました。しかし、飯田・中津川とも、品川―名古屋間500キロを40分で結ぶリニア中央新幹線の停車駅となっています。
立川稲門会のホームページにエッセイを掲載するにあたって何をテーマにするか考えたとき、やはり立川について書くべきかと思う。 私は立川生まれの立川育ち。また、立川とその周辺に私のいとこは、亡くなった人も含めれば、10人以上はいる。しかし、父も母も長野県飯田市出身。その詳しいいきさつを私は実は比較的最近従姉から聞いて知った。...
エッセイが始まります。まずは、小林会長が執筆します。